タイラー・ザ・クリエイターはアメリカ・ロサンゼルスのラッパー。1991年生まれ。ヒップホップのアーティストグループ、オッド・フューチャーのリーダー。2009年にEP「バスタード」でソロデビュー。自己を探求するアルバムを作り続けており、「フラワー・ボーイ」で評価され始めた。「イゴール」「コール・ミー・イフ・ユー・ゲット・ロスト」は高く評価されている。
2011年。タイラー・ザ・クリエイターはアメリカ人だが、このアルバムはイギリスのエレクトロ音楽レーベルのXLから出ている。アルバム全体がタイラー・ザ・クリエイターの精神分析のようになっており、多くの曲で精神分析家と被験者の両者が出てくる。ヒップホップでデビュー当初から内面の自己分析に自覚的なアーティストは少ない。タイラー・ザ・クリエイター自身とみられる被験者はアルバムの中で、父親がいないこと、女性関係がうまくいかないことを告げる。これらが人間的成熟に障害となっていると自己認識しているようだ。自分の体験をそのままラップにする者と、第三者的に見ようとする者の差は大きい。次作以降、どう展開していくのかを期待させる。シンセサイザーや電子機器の不穏さはXLから発売されたということを納得させる響きだ。
2013年。音響的な不穏さは薄れた。銃声が多用される。アルバムタイトルの「ウルフ」とは前作の「ゴブリン」で被験者となっていた者の名前であり、このアルバムもタイラー・ザ・クリエイター自身を語っているアルバムと言える。結論のようなものは見いだせず、物語は次作以降に継続するとみられる。ファレル・ウィリアムス、エリカ・バドゥ、フランク・オーシャンらが参加。
2015年。バンドサウンドのようにギター、ベース、ドラム、キーボードが使われ、90年代から2000年代のオルタナティブロックを加工、編集したような演奏が続く。音響的には「ゴブリン」から「ウルフ」への垢抜け方からさらに進んでいる。しかし、歌詞の面では前作からの継承がなく、「ウルフ」までの人格がいったん途切れている。従ってこのアルバムは前作までとは別の系統にあり、内容としては他の一般的なヒップホップアーティストとそれほど変わりない。タイラー・ザ・クリエイターの身の回りで起きていることを、自身が語っている。オープニング曲の「デスキャンプ」ではNASの「イルマティック」よりN.E.R.Dの「イン・サーチ・オブ…」に影響を受けたと言っている。アルバムタイトル曲以外はすべて誰かの客演があり、ファレル・ウィリアムス、カニエ・ウェスト、リル・ウェイン、カリ・ウチスらが参加。「ファインド・ユア・ウィングス」ではアシッドジャズの大御所ロイ・エアーズがビブラフォンで参加している。
2017年。「ゴブリン」「ウルフ」で試行した自己分析と「チェリー・ボム」の音響的な実験を経て、アフリカ系青年の自立の過程を現代のヒップホップで表現している。オープニング曲の「フォワード」はボブ・ディランの「風に吹かれて」、ポール・サイモンの「アメリカの歌」と同じような歌い出しで始まり、アフリカ系アメリカ人の苦難と自己を客観視できるようになった青年の孤独を歌う。タイラー・ザ・クリエイターはヒップホップアーティストとして成功し、歌詞にもその成功に由来する生活の一部を描いているが、同時に自分がまれな存在であることを意識し続け、その呪縛から逃れられないことに自覚的だ。音響的側面は穏当になった。
2019年。過去のアルバムから推測すると、「イゴール」という人名のアルバムタイトルはまたタイラー・ザ・クリエイターの別人格かと思わせるが、今回はタイラー・ザ・クリエイターとは別人物の名前のようだ。このアルバムは日本盤が出ていないが、歌詞は追憶のように書かれているので理解しやすく、状況は容易に分かる。「私」は男性の「イゴール」が好きになったが、イゴールには好きな女性がいる。イゴールと親密になりたい私と、イゴールから私を遠ざけようとする女性の2人が、イゴールをめぐって自分が望む方向へ行動する。アルバムタイトルになっているイゴールは、主体的に行動しない人物の表象としてその名前が与えられている。アルバムの後半でイゴールは女性の方へ行き、私はイゴールと親密になれない、つまり失恋状態になる。ここまでは一般的な恋愛物語だが、このアルバムはここからがポイントになる。私はイゴールに感謝し、さらにイゴールと私が「まだ友人であること」と確認しようとする。私はイゴールを喪失した状況でも友好的態度をとって自己の精神状態をケアし、人として成熟する。物語のあらすじを恋愛関係に設定しているのは多くの聞き手の共感を得やすいからだろう。世の中には自分がいくら望んでも思い通りにならないことがあり、挫折したときにそこからどう生きるかが重要だというのがタイラー・ザ・クリエイターのメッセージではないか。アルバム全編にわたって古風なシンセサイザーの音が使われており、アルバムごとに音響が変化するのも恒例となった。
2021年。アルバムごとに設定を変えて自己を探求することはタイラー・ザ・クリエイターがデビュー以来繰り返してきたことだ。今回は「タイラー・ボードレール」になって、2021年時点でのタイラー・ザ・クリエイターの状況を描いている。タイラー・ボードレールはジャケットの旅券に書かれている名前で、誕生日はタイラー・ザ・クリエイターと同じだ。30歳のタイラー・ボードレールはこのアルバムでその人生を振り返っている。タイラー・ボードレールは今、成功した人間の生活を送っているが、それは当初から成功していたのではなく、若いときは未熟だったと言っている。タイラー・ザ・クリエイターの人生にあてはめれば、「チェリー・ボム」以前は未熟だったと言っており、「フラワー・ボーイ」で成功したという一般の評価と一致する。そうなると、聞き手が興味を持つのは「イゴール」がどう扱われるかだ。これが10分近くある「スウィート/アイ・ソート・ユー・ウォンテッド・トゥ・ダンス」に組み込まれ、好きになった男性とダンスがしたいと歌われる。このダンスにレゲエを採用している。ヒップホップではアーティストが自らの生活や強さを誇示するだけの曲、アルバムが多かったが、タイラー・ザ・クリエイターはそうではない。順風満帆ではなかったと認めるところに人としての成熟があり、結果的にそこが評価されている。