ケイシー・マスグレイヴスはアメリカのカントリー歌手。1988年生まれ。デビューアルバムの「セイム・トレイラー・ディファレント・パーク」で社会性の高い曲を収録し、米グラミー賞の最優秀カントリーアルバムを受賞。「ゴールデン・アワー」で全ジャンルの中から年間最優秀アルバムとなった。
2013年。ケイシー・マスグレイヴスは2000年代前半から自主制作のアルバムを出しており、このアルバムの時点で10年程度のキャリアがある。したがって、2000年代から2010年代前半のポップス、カントリーの影響を受けている。カントリーポップとは別にオルタナティブカントリーが存在し、音楽の可能性をカントリーよりも広く想定することができる世代であり、2010年前後の自由で自尊心が高いポップカルチャーも通過している。このアルバムは2000年代ほどポップなカントリーではなく、ドラムやシンセサイザーは目立った使われ方をしない。そこは聞きどころではないと主張するかのように、歌詞を聴かせる歌い方をする。強い印象を与えるのは地方の保守性を歌う「メリー・ゴーラウンド」、同性愛を歌う「フォロー・ユア・アロウ」だ。現代ポップスの社会感覚に追いついているカントリーのアルバム。
2015年。前作の曲調にストリングスが加わっている。フィドルとしての使われ方ではなくバイオリンとして使われている。アルバムタイトル曲に強いメッセージ性が込められており、これが女性の自己肯定感を大きく上げる。自己成長のためには故郷を出なければならないと歌う「ダイム・ストア・カウガール」は、アメリカの南部からカリフォルニアに向かうという行程がスタインベックの「怒りの葡萄」を思わせる。この曲は「怒りの葡萄」ほどの社会告発ではなく、自立には現在の環境からの変化が必要という緩やかな歌詞であり、「それでもまだ故郷と呼ぶ」とアメリカ南部に愛着を示している。「グッド・オール・ボーイズ・クラブ」は所属よりも人格が重要だと歌い、「ボーイズクラブの一員になりたくない」とはっきり言う。「ビスケット」はポール・サイモンの「アメリカの歌」と同じように、うまくいかなかった市井の人に対する寛容を歌う。
2016年。クリスマスアルバム。12曲のうち4曲は自作曲。概ねカントリーの曲調。レオン・ブリッジズと協演する「プレゼント・ウィズアウト・ア・ボウ」はケイシー・マスグレイヴスのカントリーよりもレオン・ブリッジズのソウルの方に寄っている。「リボンズ・アンド・ボウズ」はバリトンサックスがグラムロック風に使われるポップス。「ア・ウィリー・ナイス・クリスマス」はウィリー・ネルソンと協演。
2018年。「オー、ホワット・ア・ワールド」のボコーダー、「ハイ・ホース」のダンス音楽風ポップス、宇宙のカウボーイとは異なる歌詞で歌われる「スペース・カウボーイ」、80年代のようにビートを強調した「ヴェルヴェット・エルヴィス」など、カントリーやカントリーポップスの枠から逸脱しようとする試みが続く。メロディーをエルトン・ジョンに寄せたピアノ曲の「レインボー」は、「フォロー・ユア・アロウ」と同様にLGBTQを擁護する。これまでのアルバムと同じようにカントリーの表現領域を広げている。「スロウ・バーン」収録。日本盤は「メリー・ゴーラウンド」「フォロー・ユア・アロウ」をそのまま再収録している。
2021年。アコースティックギター、スチールギターが大きく減り、アルバム全体としてポップスになった。ケイシー・マスグレイヴス自身の離婚の経験を基にしたコンセプト盤。アルバム全体が5曲ずつ3幕に分かれた演劇風の構成になっている。第1幕は結婚生活、第2幕は破局の過程と動揺、第3幕は傷心からの復活を描いている。結婚している時のケイシー・マスグレイヴスは多くの既婚者と同じように配偶者に依存し、精神と自己決定権の一部を預けている。このアルバムは、離婚によって空洞化した精神を自力で埋め戻し、他人への依存を経験した個人の精神的自立を本人の分析によって作り上げている。一連の出来事を再構成して自分の中での意味を構造化することは、ケイシー・マスグレイヴスだからできることだ。曲はそれぞれのエピソードとは必ずしも同じ雰囲気ではない。アコースティックギターを使っている曲でも、カントリーかと言われればポップスという曲が多いが、それはカントリーとポップスを対等のジャンルととらえたときの認識であり、ケイシー・マスグレイヴスはそのジャンルを超越したとも言える。カントリーをポップスの一ジャンルと考えればカントリー歌手からポップス歌手に昇格した。「ジャスティファイド」「カメラ・ロール」「ブレッドウィナー」収録。
2024年。持続音が多いポップスからアコースティックギター中心の曲調に戻ったが、それがカントリーになった訳ではなく、シンガー・ソングライターのような作風になった。対照的な2枚のアルバムを経て1人で活動していた初期の境遇に戻ったが、精神的には成熟したので内面を表現しやすいシンガー・ソングライター風になるのは理解できる。自らの経験を踏まえて運命を創造者に問う「ジ・アーキテクト」は、どこまでが予定されていた人生なのかという疑問を歌っており、宗教観に踏み込んでいる。「アニメ・アイズ」は日本のアニメに特徴的な目の描き方を結婚していた頃のケイシー・マスグレイヴスの心理に重ねており、スタジオジブリの宮崎駿の名前が出てくる。セーラームーンにも言及しており、日本のアニメがアメリカにおいて大きな影響力を持っていることが分かる。初期のような社会変革を援護する歌詞は目立たなくなったが、今後復活してくるだろう。