1969年。邦題「シカゴの軌跡」。ギターはテリー・キャス、ベースはピーター・セテラ、キーボードはロバート・ラム、トロンボーンはジェイムズ・パンコウ。この4人を中心としてドラム、トランペット、サックスを含め7人編成。全編にホーン・セクションを導入し、歌詞は政治的だ。「1969年8月29日シカゴ、民主党大会」は1969年8月29日シカゴでの民主党大会の警官と民衆の衝突をそのまま録音している。それに引き続く「流血の日」はその民主党大会を扱っている。「いったい現実を把握している者はいるだろうか?」「クエスチョン67/68」はロバート・ラム作曲。ギターソロが7分ある「フリー・フォーム・ギター」はテリー・キャス作曲。ジェイムズ・パンコウが作曲した最後の「解放」は15分ある。「アイム・ア・マン」はスペンサー・デイヴィス・グループのカバー。全米17位。新人なのに2枚組でデビューしたにもかかわらず200万枚。「クエスチョン67/68」は24位、「アイム・ア・マン」は49位、「いったい現実を把握している者はいるだろうか?」は7位、「ビギニングス」は7位。「シカゴと23の誓い」はおろか、「III」がリリースされた後でもまだこのアルバムからシングルカットされ、ヒットしていた。サックスのウォルター・パラゼイダーはアメリカ五大オーケストラの一つ、シカゴ交響楽団から入団を誘われたことがあるというが、確認のしようがない。
1970年。再び2枚組アルバム。前作と違い、1枚目はジェイムズ・パンコウ中心、2枚目はテリー・キャスとロバート・ラムの作曲。双方のB面はサブタイトルがついており、1枚目のB面は「バレエ・フォー・ア・ガール・イン・ブキャノン」。「ぼくらに微笑みを」で始まり、B面最後の「愛は限りなく」のエンディングで再び「ぼくらに微笑みを」のメロディーが出てくる。2枚目のB面は「栄光への旅路」。政治的ではあるがデビュー盤ほど直接的ではない。「約束の地へ」はすばらしい。全米4位。「ぼくらに微笑みを」は9位、「長い夜」は4位。「ぼくらの世界をバラ色に」収録。
1971年。2枚組アルバム。1枚目のB面と2枚目のA面後半、B面にサブタイトルがつく。2枚目のB面は1曲目がロバート・ラムの詩の朗読で、その後に続く5曲はすべてインスト。ロバート・ラム、テリー・キャスのほか、ピーター・セテラが作曲に加わってきた。「フライト・ナンバー602」は初めてカントリー風の編曲で、60年代後半から70年代初頭のカントリー・ロックブームを反映している。「火星へのモーターボート」はドラムの作曲。「ロウダウン」はフォーク・クルセダーズの北山修が日本語の詩をつけ、シカゴが日本語で歌ってシングルカットされた。全米2位。「自由になりたい」は20位、「ロウダウン」は35位。
1971年。4枚組ライブ盤。CDは3枚組。全米3位。
1972年。初めて1枚で出したアルバム。即興演奏の雰囲気はほとんどなくなり、アンサンブルがきちんとした曲が多い。ポップ化の第一段階。「サタデイ・イン・ザ・パーク」は70年代でバンド最大のヒット。全米1位、200万枚。「サタデイ・イン・ザ・パーク」は3位、「ダイアログ(パート1&2)」は24位。
1973年。邦題「遥かなる亜米利加」。前作と同路線。ピアノの使用が多くなった。全米1位、200万枚。「愛のきずな」は10位、「君とふたりで」は4位。
1974年。邦題「市俄古への長い道」。2枚組。全15曲のうち、前半の6曲はジャズに傾倒した作風で、7曲目からは前作以上にポップになった曲が並ぶ。サウンド上の変化として、コーラスが美しくなり、キーボードが多彩になっている。パーカッションの使用も多い。ポップ化の第二段階。「渚に消えた恋」ではビーチ・ボーイズのメンバー3人がコーラスで参加。「ママが僕に言ったこと」の女性コーラスはポインター・シスターズ。「思い出のビブロス」は東京のディスコの店名がそのままタイトルになった曲。全米1位。「遥かなる愛の夜明け」は9位、「君は僕のすべて」は6位、「渚に消えた恋」は11位。
1975年。邦題「未だ見ぬアメリカ」。パーカッションが加入し8人編成になった。全体的にソウル、リズム&ブルースの影響が濃い作風。オープニング曲からピアノはリズムを刻み、ギターはボトルネック風に鳴る。「明日のラブ・アフェア」のタイトルに「パート1&2」とついているのは、1と2でボーカルがテリー・キャスからピーター・セテラに変わるから。「逃亡者」はフリーの「ファイア&ウォーター」のリフでマウンテン、またはブラック・サバス風に演奏。「追憶の日々」はフィラデルフィア・ソウルのようなストリングスだ。全米1位。「拝啓トルーマン大統領」は13位、「追憶の日々」は5位、「明日のラブ・アフェア」は61位。
1975年。ベスト盤。全米1位、500万枚。
1976年。邦題「カリブの旋風」。パーカッションが加わったことで、リズムが強調されたサウンドになった。そのリズムはロックとはまた別の、南洋風のリズムだ。「愛ある別れ」は従来の固いブラスの音ではなく、柔らかいフレンチホルンを使用し、バンド初の全米1位となった。シンセサイザーもバックで使用。全米3位、200万枚。「雨の日のニューヨーク」は32位、「愛ある別れ」は1位、「君の居ない今」は49位。
1977年。シカゴとしては久しぶりに組曲を含む。このうち2曲はオーケストラ演奏を導入、「朝もやの二人」でもオーケストラが入っている。前作の「愛ある別れ」に続くバラードのヒットで、ポップ化が進むことになる。「愛ある別れ」はフレンチホルンを使ったが今回はフリューゲルホルンを使用。「僕の公約」はゴスペル合唱団が参加。「シカゴへ帰りたい」はチャカ・カーンが参加。全米6位。「朝もやの二人」は4位、「愛しい我が子へ」は44位、「シカゴへ帰りたい」は63位。
1978年。ギターのテリー・キャスが死亡し、新たに元1910フルーツガム・カンパニーのギター兼ボーカル、ドニー・デイカスが加入。ドニー・デイカスは2曲でリード・ボーカルをとり、それ以外のほとんどの曲でバックボーカルをとる。これまですべてのアルバムをプロデュースしていたジェイムズ・ウィリアム・ガルシオに替わって、フィル・ラモーンがプロデュース。コーラスが一層シャープになり、ホーン・セクションは統制され、全曲がポップになっている。「リトル・ミス・ラビン」のエンディングのコーラスはビー・ジーズ。全米12位。「アライブ・アゲイン」は14位、「ゴーン・ロング・ゴーン」は73位。ドニー・デイカスがリード・ボーカルをとる「テイク・ア・チャンス」は日本独自にシングルカットされた。
1979年。前作と同路線。オープニング曲の「ストリート・プレイヤー」は9分の大作。ジャズ・トランペットのメイナード・ファーガソンが参加し、普段通りの驚異的演奏をしている。メイナード・ファーガソンは、ブラスロック・バンド、チェイスを結成したビル・チェイスの師匠。ピーター・セテラの表現力が注目される。ポップ化によって響きは心地よくなったかもしれないが、音楽によって主張らしい主張がなされることはなくなった。全米21位。「マスト・ハブ・ビーン・クレイジー」は83位、「ストリート・プレイヤー」はチャートインせず。
1980年。ギター兼ボーカルのドニー・デイカスが抜け、ギターのいない7人編成。ギターは正式メンバーにならず、ゲスト参加でレコーディングしている。ピーター・セテラが10曲のうち8曲でリード・ボーカルをとり、シカゴのアルバムの中で最も多い。アップテンポの曲が減り、やや落ち着いた印象。派手なパーカッションや快活なリズムも少ない。全米71位。「サンダー・アンド・ライトニング」は56位、「ソング・フォー・ユー」はチャートインせず。
1981年。ベスト盤。「シカゴVIII」から「ホット・ストリート」までの10曲。全員で歌う「ダイアログ・パート2」と、ドニー・デイカスと一緒に歌う「アライブ・アゲイン」を含め、すべての曲でピーター・セテラがリード・ボーカルをとっている。全米171位。
1982年。邦題「ラブ・ミー・トゥモロウ(シカゴ16)」。ギター兼ボーカル兼キーボードにビル・チャンプリンが加入し、パーカッションが抜け7人編成。当時アダルト・オリエンテッド・ロック全盛期で、その立て役者であるデビッド・フォスターがプロデューサーになってサウンドが大きくAOR寄りになる。オリジナル・メンバーのみで作曲した曲はなく、全曲が共作、もしくは他人の作曲。オープニング曲はトトのボーカル、ジョセフ・ウィリアムスが作曲で参加、「あなたの気持ち」はデビッド・フォスターとトトのメンバーが作曲。10曲のうち8曲でデビッド・フォスターが作曲に関わっている。トトのスティーブ・ルカサーがギターで、デビッド・ペイチがキーボードで参加。バラードの傑作、「素直になれなくて」はシカゴ最大のシングルヒットになった。ジャズ要素、ラテン要素は皆無。ロバート・ラムがボーカルをとった曲がなくなり、8曲でピーター・セテラ、2曲でビル・チャンプリンがボーカルをとる。全米9位。「素直になれなくて」は全米1位、「ラブ・ミー・トゥモロウ」は22位、「ホワット・ユー・アー・ミッシング」は81位。
1984年。ギターが1人増え、8人編成。前作よりもさらにAOR化が進行し、ドラムは機械的な音に、ベースはシンセサイザーのような音に。シカゴという名前で出す必然性がほとんどなくなってしまったような音だ。シカゴよりもデビッド・フォスターの個性が強く出たアルバム。ダニー・オズモンド、リチャード・マークスがバックボーカルで参加。「プリーズ・ホールド・オン」はコモドアーズのライオネル・リッチーが作曲で参加。全米4位、600万枚。シカゴ史上最高売り上げのアルバム。「ステイ・ザ・ナイト」は16位、「忘れ得ぬ君に」は3位、「君こそすべて」は3位、「いかした彼女」は14位。
1986年。ピーター・セテラとギターが抜け、ボーカル兼ベースにジェイソン・シェフが加入し、ギターのいない7人編成。前作と同路線。「長い夜」の再録音バージョン収録。よくなったとは言えない。オープニング曲はボビー・コールドウェルが作曲で参加。全米35位。「長い夜」は48位、「スティル・ラブ・ミー」は3位、「フェイスフル」は17位、「ナイアガラ・フォールズ」は91位。
1988年。10曲のうち、半分がまったく他人の作品。全米トップ10に入るシングルが4曲もあるという高品質アルバムだが、このうち3曲はその他人の作品で、残りの1曲はボビー・コールドウェルが関わっている。シングルカットされた5曲のうち、ベスト10に入らなかった曲が、メンバーの作曲だという皮肉。ビル・チャンプリンがボーカルの「ルック・アウェイ」は大ヒット。プロデューサーが替わったが、再びヒット性の高いロン・ネビソンが4曲をプロデュースし、4曲ともシングルカット。残りをチャス・サンフォードがプロデュース。「リブ・ウィズアウト・ユア・ラブ」はアルバート・ハモンドが、「ホワット・カインド・オブ・マン」はボビー・コールドウェルが作曲で参加。ダン・ハーフがギターで参加。全米37位。「リブ・ウィズアウト・ユア・ラブ」は3位、「ルック・アウェイ」は1位、「ユア・ノット・アローン」は10位、「ウィ・キャン・ラスト・フォーエバー」は55位、「ホワット・カインド・オブ・マン」は5位。
1989年。ベスト盤。「19」に続く20番目のアルバムとして計算されている。全米37位、500万枚。
1991年。未発表1曲を含む4枚組ベスト盤。
1991年。ギターが加入し、ドラムが抜け、ドラムがいない7人編成。プロデューサーがロン・ネビソンになり、ややロック寄りになっている。トトのスティーブ・ポーカロがキーボードで参加。全米66位。「チェイシン・ザ・ウィンド」は39位、「ユー・カム・トゥ・マイ・センセス」と「ハートに伝えて」はチャートインせず。
1995年。ギターが交代し、ドラムが加入、8人編成。1922年から41年までのビッグ・バンドの有名曲をカバーした企画盤。70年代以来のホーン・セクション活躍。「キャラバン」や「シング・シング・シング」「イン・ザ・ムード」など、誰でも知っているような有名な曲ばかり。全米90位。「ドリーム・ア・リトル・オブ・ドリーム・オブ・ミー」はチャートインせず。
1997年。新曲2曲を含むベスト盤。全米55位。「ヒアー・イン・マイ・ハート」「オンリー・ワン」はチャートインせず。
1997年。日本独自のベスト盤。
1997年。日本独自のベスト盤。
1998年。新曲2曲を含むベスト盤。全米154位。「オール・ローズ・リード・トゥ・ユー」はチャートインせず。
1998年。未発表曲2曲を含むベスト盤。「クエスチョン67/68」と「ロウダウン」は日本語版。
1998年。新曲2曲、未発表曲3曲を含むベスト盤。
1999年。クリスマスソングをカバーした企画盤。全米47位。
2000年。10曲がライブ、3曲が新曲。
2002年。2枚組ベスト盤。
2003年。CD4枚、DVD1枚のボックスセット。DVDは72年と79年のライブ。
2003年。2枚目のクリスマスアルバム。
2005年。邦題「ラヴ・ソングス」。ラブソングの企画盤。
2006年。「21」以来の新曲によるアルバム。エレクトロニクスやスクラッチを使わず、オーソドックスなバンドサウンドで録音している。1970、80年代と変わらないブラスサウンドだ。適度にメロディアスでドラマチック。曲の良さは以前と変わらないが、ヒットするかどうかで言えば、しないだろう。ほとんどの音がパソコンで1人で創作でき、曲までできてしまう時代に、8人編成の管楽器入りバンドで録音することは古風すぎるかもしれない。ギターのダン・ハーフ、ラスカル・フラッツのメンバーが参加している。
2007年。ベスト盤。アルバムの計算上、31番目。
2008年。1993年に録音され、22番目のアルバムとして発売される予定だったアルバム。
2011年。3枚目のクリスマスアルバム。新曲1曲収録。
2011年。ライブ盤。録音は1975年。ピーター・セテラ、テリー・キャスも参加している。